1.

同期が異世界へ行った。  異世界転移とは事故死や自殺の隠語ではない。実際に、彼はこの世界とは別の世界に転移したということだ。  あちこちの職場をバイトやらパートやらで転々とした末の中途採用だった俺は、最初から末端の労働力として採用されていた。  仕事を選ぶにあたって、希望は特になかった。前の職場を首切り同然に辞していたことから貯金も心許なかったし、トントン拍子で採用が進んだというのもある。あの時ばかりは「縁があった」とひとりでちょっとした祝杯を挙げた。  彼は俺よりも一ヶ月早くに入社した、先輩なのか、同期なのかよくわからない存在だった。ただ似たようなタイミングで、同じ部署に配属になったことに「これも縁なのかね」と思ったことはたしかだ。  彼は管理職候補の正社員採用で、俺はその下で働く作業員。上司と部下。言うなれば考える頭と、動かされる手足だ。  正社員の旨味というのはよくわからないが、彼は自分に任された仕事に誇りをもって臨んでいたのだと思う。そんなに頑張って褒められて、嬉しいもんかね。テキトーにやって、その分の給料を貰って、最低限食いっぱぐれなきゃ何でもいい。俺と彼の違いはそういうところだった。  配属から三ヶ月くらい経ってからだろうか。最初の頃と比べてだいぶ忙しくなったと体感できるくらいになった。  毎年八月に社を上げて行われるイベント——それが始まったのだった。  何のことはない。俺の部署はその最終的な尻拭いをさせられることになっただけだ。自分たちの保身しか考えない他部署、支援のないままにすり減らされる人的リソース。所属するスタッフ全員が疲弊していた。イベントが終わりさえすれば急場は脱せる。  しかしそうはならないことを全員がわかっていた。  それよりも先に、彼が潰れることが目に見えていたからだ。  連日の長時間残業、休日出勤。シフト制の会社であるにも関わらず、彼を会社で見掛けない日はない。電話は鳴り止まず、応対する彼は見えない相手に謝ってばかりだった。  常に顔色は悪く、目に見えて日に日に弱っていく彼。  限界は近いのだろう。鳴り響く電話をぼぅっとした表情で見つめる彼の横顔を、とてもよく覚えている。  一致団結。社員全員が力を合わせて——しかし誰も俺たちのことを助けてはくれなかった。  彼は犠牲になるために雇われた。それに気付いたのはずっと前だったが、そうしたところで俺には何もできない。何をするつもりもなかった。  それでも彼は踏ん張った。見ているのが痛々しく、やがて誰も彼を見なくなった。  そんな、身近で最も危うかった彼が異世界転移した。役所よりもずっと上にあるという、聞いたこともない何とか省とかいうところからそんな通達が来たのは、彼が無断欠勤をしてから一週間が経ってからだった。  神経性の病気に罹ったか、あるいは自殺したか——かく言う俺も、自殺とまでは言わずとも、何かしらの心の病気に罹ったのだろうと考えていたところだった。  そんな彼が、異世界転移? 通達が来たところでぽかんとし。  そして、ああ、彼はもうここには戻ってこないんだな、と理解した。  どういう原理なのかはわからないが、とりあえずそういうことらしい。  その後会社がどういう風に動いたのかは、下っ端の俺にはわからない。ただ以前と同じように、それこそ彼が最初からいなかったのだとでも言うように、いつもの日常が戻ってきた。  席が空いてしまった正社員枠は、いつの間にか別の中途採用者があてがわれた。一度だけ上役に呼び出され、正社員へ昇格しないか、という話があったが、その場で断ってしまった。彼の顛末を一番近くで見ていたのは他でもない、俺だ。しかし彼と同じ仕事をすることはできないし、するつもりもなかった。あんなになってまで、この会社に尽くすつもりはない。  仕事へのやる気も失せてきた。自分にそんな熱意めいたものがまだあったとは驚きだったが、なんだかんだ言っても、彼がいなくなったことで動揺している自分がいることを再認識してしまったのだった。


2.

社員ひとりが異世界転移したからといって、会社が何か変わるわけでもない。仕事内容が見直されるわけでもないし、増員があったわけでもない。  新しくあてがわられた社員は死んだ魚の目をしながら仕事しているし、他のスタッフたちも、俺と同じように労働意欲をなくしているようだった。  はっきり言って、今の労働環境は最悪と断言できるだろう。 「労基に訴えたらどうにかなりますかね」 「ならんだろ。上からもっと圧力掛けられるぞ」 「そしたら俺、異世界転移しますわ」 「高橋さんみたいに? あれだって眉唾じゃん。俺はあれだ、自殺を会社が隠蔽してる説を推すね」 「飯田さん、それずっと言ってるけど、役所からお達しが来たんだしガチなんじゃねえんですか」 「いやでも……異世界転移って胡散臭すぎだろ。トクさんもそう思うでしょ?」  突然話を振られた俺は、作業する手を一旦止めた。 「……正直、俺もよくわかんねえけど。とりあえず高橋さんはいなくなった、そんな風に考えるしかない。自殺なのか、病気なのかは俺たちには関係ないだろ」 「そりゃそうだけどさ……新しく来たあの人、山本さんって言ったっけ。もう既にやられてるみたいだし。また異世界転移しちゃうんじゃねえの?」 「先が思いやられますよね。引継ぎもなしにいなくなられるのも困るけど、手足の動かし方も理解してないのを頭によこされても、正直こっちのが困るんですよね」 「そう言えばトクさん、なんで昇格の話蹴ったの?」 「……俺は高橋さんみたいな働き方できねえし。それに、そんな責任あるポジションなんてゴメンだね」 「出たよ、トクさんのクズ発言」 「何とでも言え」  俺は責任なんてまっぴらだ。どうして他人のために頭を下げたり謝るしかないんだ、とすら思う。同時に、こんな性格だから正社員としてどこに行ってもやっていけないのだということも、自覚している。 「どのみち、ここもそろそろだって」 「そうですね。最初はいいところかもって思ったけど、長くいるところじゃねえですわ。俺も次考えとかないと」  そう話す二人は、若い。  対する俺はどうだ。もう若くはない。とっくに三十を過ぎて、もうすぐ四十手前になる。そうすると再就職もままならない。ここから出て行ったところで、あてもない。頼れる家族もいない俺は、ひとりでやっていくしかない。幸い、嫁も子供もいないため、食い扶持はひとり分で済んでいるのが救い、なのだろうか。  再就職先の話題を出した二人を尻目に、俺は黙って作業を再開した。  ここを出た後の、次。  そんなものはない。ここが俺の終着点なのだ。


3.

「徳原さん、ちょっと聞きたいことがあるのですが……」  ある日、新任の山本が蒼白い顔で話し掛けてきた。死んだ魚の目を思わせるうつろな目をして、肉体を持った幽霊みたいに見える。 「なんでしょうか」 「はぁ、実は仕事でわからないところがありまして……」 「俺に社員の仕事はわかりませんよ」  そう突き放すと、彼は小さく頭を下げてすぅっといなくなった。嫌な感じだ。まるで俺が悪者みたいじゃないか。  それからしばらくして、再び消え入りそうな声で山本が話し掛けてきた。 「あのぅ……」 「なんですか」 「これなんですが……前任の方の荷物がまだ、残っていたみたいで……」 「そうですか。全部片付けたと思ったんですが、まだ残ってたんですね」  差し出されたのは一冊のノートだった。業務日誌か何かだろうか。彼は几帳面だったし、そういった類のものが残っていてもおかしくはない。  彼の残していった荷物はまとめて実家へと送付済みだった。荷物をまとめたのは俺だったので、面倒ではあるが無視はできない。 「わかりました。俺があとで総務に渡して、実家に送ってもらいます」 「ありがとうございます……」  この時、受け取っておいて「どうせなくして困っている者もいないのだから」と自分のデスクの引き出しにしまいこんだ。  そしてそのまま、忘れていた。


4.

彼のノートを改めて確認したのは、俺に社員の受け持っていた仕事の一部が回された頃。業務を分散させることでひとり頭の負担を軽減させる——そんな名目だった気がする。  そこで彼の残した日誌が役に立つのはないかと思い、引き出しの奥から引っ張り出してきたのだった。  実際、今まで何度かノートのことを思い出す時があった。しかし、その度に他のことを考えるようにして、忘れるよう努めた。  怖かったのだろう。もしノートが本当に業務日誌で、その中に彼の日頃の言葉——例えば、会社への恨みとか、部下への不満とか、そういった呪いのようなものたち書き記されていたらと考えると、どうしても開くことができなかった。  開いてみると、最初こそは業務日誌の体裁を保っていたそれは、徐々に彼の日記のような内容に移り変わり——。 「こりゃあ……何かの研究でもしてたのか」  しかも、おそらく黒魔術とか、そういうオカルトっぽい内容の。  しかし見る限り、彼の筆跡は業務と同様に几帳面で、読んだ者にその生真面目な性格を印象として抱かせる——まったくもって正気な文字と文体で書き記されたノートだった。  最初はなんとも思わなかった。仕事のストレスで、人には言いにくい物事に興味を抱き、仕事の合間にちょっとした息抜きとして調べ物をしていた、とかだったのだろうか。  だが俺はその調べ物の書き記されたノートに、ひとつの無視できない単語を見つけてしまった。  ——異世界転移。  彼が消えた要因。  どういうことだ? どうして彼のノートに、よりによってこの言葉がある?  我に返った俺はノートを閉じる。周りに人がいないのを確認し、自分の荷物に滑り込ませた。


5.